[ひとりの]文字を残して人に見せるという作業の理

わたしの住み始めた地はどんどん涼しくなって、まだ夏の暑さを残しながら
ぼんやり冷えていく。

わたしが文字を書いて残そうと思うとき、
本当は人に見せることなど全然考えていない。
自分の書いた文字は自分へのものだ。

意識的にそうしているのかというと語弊が在って、
人に見せる作業とか処理という段階のことを考えるとき、
自分の書いたことが変質するのを感じる。
人に見られる文章というものが、自分の本質ではないからだ。

つまり、人に見られるということを意識するとき、
自然に「小説を書くように」習性付けられているのが原因だ。
今まで人に見せることを意識した文章は
「小説」と呼ばれる類のものしか書いたことがないからだ。

わたしはその習性を致命的だと感じる。
主観的な文章を書こうとするとうまくいかない。
抵抗もあるのだけど、人間の感性から成立するような自然な文章が書けない。
常に俯瞰を気にし、遠くから眺めて歪んでいないかばかり試行する。
それでも完全に歪な像しか結べない。

小説ばかり書いたからか、小説を書きたかったからか、
原因と結果ははっきりしないけれどそれもまた瑣末なことで、
一番困っているのは他人の主観的な文章(それも感情的な)を見るたび
気分が悪くなってしまうことだ。

対象はいろいろある。
独り善がりの文字通り独善的な、
自分を可愛がる余り他人を陥れようとする感情的な、
多くを語ろうとして失敗して崩壊した日本語を内包する、
そういうものが多分目に触れるだけでわたしは駄目なのだと思う。

嘗てのインターネットは「対話」はあったが「独り言」は少なかったし、
ましてや「他人に見せるための独り言」というものはそれほど存在しなかった。
その時点でわたしが書いているものの正体は「記録」にしか値せず、
他人において何らかの付加価値が生じるものとは考え難かった。

という考え方は古いのだとさらりと思うことは出来る。

わたしは恐らく彼らと同じようには書けない。
欠落しているのか、失われたのかは分からないが、
他人に見せるための独り言を、自身の流儀を無視して書き出すと
覿面に悪酔いする。
わたしはわたしの文章に期待を持ってはいないから、だと思う。
読まれたことで世界を変えたり、
流布することで人を動かしたり、
確かに小説にそういう思いを込めることも可能かもしれないけれども。
人間としての生の感情は小説とは相容れず、
小説しか書けないわたしの作り事だらけの内面は
生の感情を書くことを拒否しているのかもしれない。

わたしも一応人間の端くれとして生きているので、
愚痴や悩み事や怨みつらみ妬み嫉みは持っている。
それだけで浸されることを善しとしたくないという理由だけのために、
文章には認めない事にする。

blogとしての体裁は続いているものの、
わたしが文章を書くとき、自分の文章にリアリティが欠けていることは
何となく分かっている。
わたしに在る物しか書けない割りに、
わたしはわたしのことを書こうとしていない。

blogを読まれることに意味はないのかもしれない。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中