[書籍] 死ねばいいのに。

京極夏彦先生はルー=ガルーも書かず京極堂本編も書かず何をされているんですか
とか小言を言いながら爽快に読みきり。

死ねばいいのに 死ねばいいのに
価格:¥ 1,785(税込)
発売日:2010-05-15

正直ツンデレが好きって言うやつはみんな死ねばいいのに。Tシャツとかトレーナーの話かと思いました。

ツンデレ死ねばいいのに リブキャミソール(ライトピンク) M ツンデレ死ねばいいのに リブキャミソール(ライトピンク) M
価格:(税込)
発売日:
ツンデレ死ねばいいのに トレーナー(ライトピンク) M ツンデレ死ねばいいのに トレーナー(ライトピンク) M
価格:(税込)
発売日:

読みやすさで言うなら非常に読みやすい。
話もそれほど入り組んでいないが、ラストにやはり「してやられた!」と思う京極流の仕込みアリ。
ただわたしは「もしかしてそうなのかも」と思っていた通りの犯人だったので、
京極ファンならどこかで気付くような謎解き方法だと思っている。
ちょうど湊かなえの「告白」と同じような形式なので短編連作として読みやすいのかもしれない。
【内容】
鹿野亜佐美という女が殺された。
犯人は捕まっておらず、警察は未だ捜査中。
そんな中、亜佐美に関わりがあった人間たちの前に渡来健也という青年が尋ねてきて、
亜佐美とは4回会っただけの知り合いだが彼女のことをもっとよく知りたいのだという。
関係者たちは迷惑がるが、亜佐美のことを渋々語るうちに自分と向き合うことになる。
京極夏彦本人が六章構成にしようと思って書いたというだけあって構成はすっきりしている。
話そのものも非常にシンプルで、
作中では殺された女性「亜佐美」に関係があった人間の前に必ず「健也」が現れる。
亜佐美と友人でも恋人でもなかったが亜佐美のことが知りたいというだけの理由で
彼は関係者と一対一の問答を繰り広げる。
修験者のように関係者の本音を引き出し、それを大人しく聞いて受け止めてやり、
「死にたい」と訴える相手の言い分を「死ねばいいのに」と正面からばっさり切る。
勿論関係者は本当に死のうと思っていたりはしないので
健也に反発することでこれから生きていくための思い付きを得る。
このように書いてしまうと健也は京極の言うところの「狂言回し」「憑き物落とし」というヒーローのように読めてしまうのだけど、
最終章手前で憑き物に取り憑かれていたのは健也自身だということが分かる。
健也は殆ど自分のことは語らない若者として描かれているが、
亜佐美のことがどうしても気になったのは自分自身が空っぽだったからだというように語ることが多い。
自分は頭が悪くて学歴がなく礼儀も知らないフリーターだと。
それでもその健也と会話せざるを得なくなった登場人物たちは彼の吐く哲学のような言葉に惑わされる。
自分の人生には自分なりの理由や言い分があり、
例え亜佐美が自分のせいで苦しい辛い思いをしていたとしても自分が生きるためだったと。
弱い人間がだらだらと語る言葉がどんどんエスカレートし、
本人が生きることの辛さに感極まって「死んだ方が良かった」等と口走るとき、
健也は若者らしく明るく哲学的に「死ねばいいのに」と言うのがお約束。
しかしこのキャラクターは徹底的に自己矛盾を抱えているなというイメージが強い。
頭が悪く、空っぽでろくに考えもしない人間はここまで的確に「死ねばいいのに」と言ったりしないのが現実。
健也自身も自分が死ぬべきだと考えていることが薄々分かってきたので、
むしろこれは八つ当たりでもあり励ましでもある本人自身の問答なのではないかと錯覚する。
亜佐美は薄幸の女性の見本のような受身っぷりで、
読んでいると多少イライラするキャラクターでもある。
ただそれ以上に亜佐美を手ひどく扱った人間のキャラクターを悪く書き、
そこから健也との問答を経て「生きていてもいいんだ」と救済してしまうところが作者本来の手法だとも思うので
好ましくはないキャラクターでも不思議と愛着が出てくるように描かれている。
京極特有の「京極節」といった長い考察や薀蓄がないので、
キャラクターは現代のイメージに合ったそれぞれの生育暦を性格に素直に反映しているように感じる。
自分の身に起こった幸せについては認識せず、
不幸だと思った出来事をくどくどと述べ自分の言動には一切責任がないと言う登場人物たち、
どこかで見たようなキャラクターだと思うのはわたしが世の中を歪んで見ているせいばかりではないと思う。
こういう人、現実に結構な量存在してませんか?
恐らく亜佐美は本当に不幸だとは認識していなかったし、
死にたいと強く思っていたのかもしれない。
亜佐美自身には「生きていたい」とか「幸せになりたい」と思わせるようなものが何もなかったようであるし、
何かを待っていたから生きていたようにも読める。
でも健也が亜佐美に「死ねばいいのに」と言っても亜佐美本人は何もしない。
作中には一度も出てこないにも関わらずそこまで健也を強く縛っていた亜佐美の存在こそが
本当の隠された謎とも言えるのかもしれない。
健也自身が亜佐美を殺していたことはかなり早い段階で「もしかしてそうではないか?」というレベルだが推測できた。
関係者に話を聞きまわったのも、
自分が殺してしまった存在が結局何だったのか分からず不安を覚えたからという理由だったことはよく理解できる。
日本古来の怪談のパターンとして、
狐狸だと思って切り捨てたが後にその存在の核心を疑うような事件があり恐怖に駆られる、というのはお約束。
様式美としてはまずまずの展開なんだけど、
京極夏彦が現代版の怪談として敢えて取り扱った作品としてはとてもよく出来ていると思った。
というかわたしが京極夏彦をこれほどまでに愛して読み続けているのは、
京極氏が誰よりも「様式美」「装丁美」にこだわった文体を心がけている部分に由来するものも大きい。
亜佐美は自覚はなかったが世の中に我慢していたから死にたいと言ってしまい、
それを聞いて健也は殺さずには居られなくなったのだろうなと思う。
突然出会った女がレイプされた、母親に売られたという話をしてきてどうも人間だと思えない、
幽霊・妖怪・狐狸の類なら切り捨ててしまえばいいというのは日本古来の怪談ではよくある話、
現代で実行してしまったから殺人になってしまった。
怪談の中ではただ「女」であった幽霊やら妖怪やら疑わしい顔のないキャラクターは現代には存在しない。
殺してしまった後、「亜佐美」という女に顔や名前や人生が付属していたなら
自分が殺したものの存在を確かめたくなってしまうという健也の思考はとても普通であるとも言える。
この「殺人になってしまった」という部分を最終章でうまく消化できていると思う。
人は殺人者になるまでもなく、他人から自分がどう見えるかという「自分」のことを気にしているので
ひたすら亜佐美の存在に気を取られ続けた健也とは最後まで噛み合わない。
通常殺人者になりたくなかった人間の「殺人」は全ての終わり、結果であると言えるが
健也にとっては亜佐美を殺すことが全ての始まりだったに過ぎない。
健也がひたすら自分を殺人者と主張するのは、
亜佐美に人間で居て欲しいからだという酷く歪んだ思考によるのではないかと感じる。
ここでやっと関係者を狂言回し役として裁いてきた健也こそが一番亜佐美から遠い人間だったのだと理解できた。
彼は理解できる理論を吐く人間相手だからこそ「死ねばいいのに」と言えたし、
死ねばいいと思った相手でも殺さなかったのだと思う。
そこでただ死にたいと言った亜佐美こそが化け物に思えたというのは立派な動機になる。
通常京極夏彦の書く「京極堂シリーズ」では動機の有無は重視されない、
というよりも完全に無視される。
それと比較すると動機があり怪談の手法に乗っ取った本作は一般受けしそうなイメージがある。
また構成がくどいという指摘も多いように見受けたが、
これは連載の都合によるものだとも思われるし、「様式美」大好きなわたしとしては全く違和感がなかった。
毎回毎回健也が自分のことを頭が悪い、空っぽな人間だと語るのは最終章に向けて充分な儀式だと思うし。
「死ねばいいのに」というタイトルは京極氏本人も「これはひどい」と言っているけども、
呪いの言葉ではなくむしろ言った相手に気付かせるための言葉なので
やはりこのタイトルこそがふさわしかったのだと思う。
ただ日常の会話にはあまり登場させたくない書名ではある。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中