[書籍]サイコと官能のミスリード

我孫子武丸さんの本、
人形シリーズは読んだことがあるんだけど他は未読だったので読んでみた。
人形シリーズは和みの極地というかぼんやりした面白さが良かったのに
今作にはそのかけらもありませんね猟奇ですね。
殺戮にいたる病 我孫子武丸著 を読んだ。

殺戮にいたる病 (講談社文庫) 殺戮にいたる病 (講談社文庫)
価格:¥ 600(税込)
発売日:1996-11-14

表題のすばらしさを実感するのはラスト2ページを読んだとき。
ちなみにオマージュかパロディか分からないが、
冒頭に始まるエピローグの前に恐らくあのキルケゴール「死に至る病」の一節が引用されている。
(キルケゴールに凝って読んでいたのがかなり前なのでうろ覚え)
「ああ、それに、わたしの考えるところでは、
あらゆるもののうち最もおそるべきこの病と悲惨をさらにおそるべきものたらしめる表現は、
それが隠されているということである。
それは単に、この病にかかっているものが病を隠そうと思うことができるし、
また事実隠すこともできるとか、
この病はだれひとり、だれひとり発見するものがないようなふうに、
ひそかに人間のうちに住むことができるとか、ということではない。
そうでなくて、この病がそれにかかっている当人自身でさえ知らないようなふうに人間のうちに隠れていることができる、
ということなのである。  
──セーレン・キルケゴール」
冒頭に始まるエピローグというのは自分で書いていて「なんじゃそりゃ」とも思うけど、
この作品では一番初めにエピローグを登場させる。
その意図が完全に判明するのはやはりラスト2ページだ。
このエピローグを素直に読んだ読者はこの事件の全貌を知らないながらも犯人を識る状態となって、
結果的に我孫子の仕掛けたトリックにはまり込んでしまうようになっていると思うのだ。
【内容】
女性を次々に殺すだけでなく、その肉体の一部を切り取るというサイコキラーである蒲生稔が逮捕される。
それは蒲生の被害者となった島木敏子の妹であるかおると、
敏子の思慕の対象であった元刑事の樋口の単独調査の成功による結果だった。
蒲生家では「息子」の怪しい様子に気付いた「母」により殺人を食い止め隠蔽しようとする動きを見せるが
殺人を犯した「息子」を「母」は殺してしまう。
逮捕された蒲生稔は殺された「息子」ではなかったのか?
我孫子武丸の文体はとても分かりやすくて読みやすく、
会話文や描写が煩雑ではないところがとてもよいとは思うのだけど
エログロに耐性のない方にはとてもお勧めできない一品。
シリアルキラーというよりサイコ殺人の趣のある犯人の嗜好性は殆ど理解できないので、
犯人である蒲生稔の章は文体のせいではなくとても読み進めにくい。
最近たまたま湊かなえ「告白」で触れたばかりだが、
母子の閉ざされた狂った世界を更に掘り下げて醜く書き出している。
母は息子を自らの支配下に置き、男性として自立する息子の性に意義を見出せないでいる。
それでいて息子を絶対的に守るのは自分しかいないと思っており、
既に興味を失くした自分の夫は家庭の維持に貢献しないと切り捨て
自分の理想の中にしかない「家族」の像を守るためにモンスター・ペアレント的な思想を重ねる。
「息子」の方は非常に単純だった。
幼い頃に父母の夜の生活を盗み見たことで「母」に思慕の情を覚えるが
それを父親に気付かれ圧し折られてしまう。
それ以来彼は正常に女性を「愛する」ということが不可能になってしまった。
ただ大学内で見かけた女にいつもと違う感情を覚えたという理由で、
女を絞め殺し屍姦を行い歪んだ自意識の中で何かを満たすことを覚えてしまう。
死んだ女こそが真実の愛だと信じ、その肉体の一部を切り出すが
勿論そんなものは永遠に続くわけもなく
彼はただの猟奇的な人殺しと成り下がることに気付かない。
個人的な感想を述べてしまうと、
この「サイコ」な部分は最高に楽しい読み物なのだが
「官能」がどうしても読みにくくなってしまう。
特にセックスや女性の体に関する詳細な記述の部分に来ると
どうしても「はいはいわろすわろす」というどうでもいい気分になってしまい、
いわゆる賢者モードで物語に入り込めない俯瞰目線で読み飛ばしてしまう。
かつては「エログロ」と「官能」の区別も付かずに江戸川乱歩を読み飛ばす人間も多かったが、
低俗な大衆小説と思われていた推理小説は立派な文学として認められるようになり
その全てが一緒くたになってしまった。
ただの謎を追うだけのときに乾燥しがちな淡々とした推理小説として留めず、
セックスの描写を盛り込むことで「官能」に弱い人間が作品自体を読み間違うという事態は
自分自身よくあることだと思う。
それが本筋ではないのだが、
読むことの苦痛、また場合によっては快感に捕らわれてしまい
結局ぼーっと読んでいるような状態になってしまう。
ただ、我孫子氏がこれを意図しているならやはりすごいことだ、と最後に思わせる結末でもある。
兎も角も一番初めに披露されるエピローグにおいて
蒲生稔は犯人であり、雅子はそれを目撃する女性であることがわかる。
先述した通り「蒲生稔の章」では狂った脳によるサイコな考えで彼自身の愛のために女性が殺され引き裂かれ、
「蒲生雅子の章」では息子の部屋をチェックし支配しようとする異常な母親の価値観が描かれ、
部屋チェックにより発見される血痕や記録や被害者の肉体の一部により「息子」の言動に慌てる様子が良く分かる。
探偵役として「樋口の章」では樋口が島木かおると犯人に迫る様子を、
樋口自身の後悔や敏子の思い出、事件の調査を織り交ぜて叙情的に綴る。
そして犯人がエピローグと同じように逮捕されるが、
その様相はエピローグと同じようでいて全く違うことにやっと気付かされる。
ただのサイコとただの官能に包まれながら読んでいた読者は
叙述テクニック=いわゆるミスリードというやつにひっかかったことを意識するうちにページが終了してしまうのだ。
文中では蒲生稔は息子として描かれ、
蒲生雅子は母として描かれる。
蒲生家の中で彼らは完結しているように読める。
息子は母への思慕を持ちながら外で女性を殺し、
その様子を収めたビデオ、被害者の乳房と女性器を殺して持ち帰る。
母は息子がなんらかの犯罪行為を行っているのではないかと気付きながら、
自分自身の息子の育て方を絶対的な信頼で思い返し反省することなく行動を起こす。
ここまでで雅子は息子である稔の犯罪を止めようとするという図式が出来上がる。
だが物語終盤、島木かおるをホテルへ拉致した「息子」は雅子によって殺されてしまう。
ここで殆どの人が「ん?」と手を止めると思う。
ナナメ読みしていたわたしですら「エピローグでは犯人が逮捕されていたはず」と思う。
※ここから下を書いてしまうと無粋かと思うので分割。
ネタバレを知ってしまうと本書を読んだときに驚けません。ご注意ください。
しかし湊かなえのときにも思ったが、
母親自身が歪んでいることを何故息子に継承させようとするのかが理解し難い。
母親自身が優れた人間ではないし、
息子自身を別の性だと認識していながら別の人間だと思っているふしはない。
息子の部屋チェックの際にはマスターベーションの回数やエロ本の内容、手紙まで調べていたりして
その異様な様子に驚くが恐らくこのような母親が実在するのだと思うので薄ら寒かった。
子供の自立を許さず犯罪よりも家族の和を守ろうとする歪んだ思考。
残念ながらこのような母親をどうやって選別すべきなのかは全く思いつかないけれども。


「犯人」は「息子」で、「息子」は死んだ。
犯人=息子、息子=死亡、まで読み進めた
必然的に犯人=死亡ではないのか?
と思うがやはり冒頭のエピローグ通り、蒲生稔は犯人として逮捕されることとなる。
今度は蒲生家で女性を殺してだ。
雅子もその場にいて驚愕の様子を見せる。
先ほど雅子が殺した「息子」は稔ではない?
わたし「えー我孫子さんこれはひどい」
といわざるを得ない。
最後に雅子が言い放つ一言で読者が騙されていたことにやっと気付くのだ。
講談社文庫版 315ページ 第十章
「ああ、ああ、何てことなの! あなた! お義母さまに何てことを!」
結局稔は自分の母を性愛の対象として殺すのだが、
稔は雅子の息子ではなく夫として存在する人間だった。
雅子が犯人だと思い込み、その浅慮と悪識で刺し殺してしまった相手は
稔と雅子の息子である信一だった。
雅子が信一の部屋で見つけた数々の証拠は、
先に稔の犯罪の気付いた信一により隠蔽されてきた稔自身のものだったのだ。
うーん何とも優れた筆致。
徹底的に読者を迷走させる構成と最後に明かす方法の潔さで、
うっかりサイコと官能に悩まされながら読み続けたことを忘れそうになった。
もしかしてミスリードを成功させるために
理解不能な思考や過激な描写が行われたのではないかと思ったほど。
変形されてはいるが、
本格推理小説の要件を充分に満たす上に
物語の特性を読者に重く残すことのない優れた娯楽小説だと思う。
全てはフィクションなのでできることだし、
映像化はとても無理だろう。
大体稔の詳細描写(中年、大学関係者、既婚者)が行われてしまったらトリックが損なわれてしまう。
一度最後まで読んだあとはその鮮烈な驚愕は味わえないが、
再読することでミスリードの地点を更に違った見方で分析できるのも味わい深い。
我孫子武丸の側面としての一部かもしれないが推理小説家としての実力を感じた。
エログロが多いので万人には勧められないが、
物語性を無視して驚きたいという方にはとてもお勧めだと思った。
しかし作中で岡村孝子のあの歌「あーなたーのゆーめをー あーきらめーなーいでー」
が稔のテーマソングのように引用されるのは何かのしるしなのだろうか。
年代を特定するためのものかとも思ったけど、
実際に起きた宮崎勤の事件が引用されているので必要ないはずだ。
何故この歌が必要とされたのかとても気になっている。

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