[ひとりの]2011年の災禍

この度被災されました全ての方にお見舞い申し上げます。
ラストにJEKIYLLの記事書いてからもいろいろ書こうとした形跡が下書きに残りつつ、
何も書いてなかったという。
2010年はとりあえず無事に年越しできた。
2011年の今年はいろいろと問題があった。
まず一番大きかったのは3月11日に発生した東日本大震災。
3月までにいろいろあったことが全て吹っ飛んでしまった。
幸い、現住所では震度5弱があっただけで家屋倒壊とか津波とかには遭遇しなかったのだけど、
あの地震の最中のことはきっと一生忘れないだろう。
在宅業務中だったので14時46分にはVisualStudio2005を広げてプログラムを書いていた。
仕事場兼自室だったので布団が敷いてあり、飼ってるポメラニアン2匹がそこで平和に寝てたわけなんだけども
グラッと来てなんだかいつもより揺れ方がおかしいので犬2匹ひっつかんで慌てて階段を降りた。
2日前の3月9日にも大きめの地震があったがそんなものかなと思っていた。
それが、1Fに降りて玄関のドアを開け放っても何だか揺れが止まらなかった。
すぐに家の中がミシミシ言い出したので、母と犬を1匹ずつ抱いて外に出た(危険なのは重々承知)。
この時点ではまだ割とまっすぐ立っていた。
その後恵比寿駅や新宿駅にある動く歩道を思い出したんだけど、
どうも世の中が恐ろしい勢いで横に揺れだした。
電信柱が倒れそうな具合だった。
ずっと足踏みしていたので自分はまっすぐのつもりだったのだけど、
恐怖のあまり手をつかんで来た母が一人で立てずに揺れているので
「何でお母さんこんなに揺れてるの…」とずっと思っていた。
実際には揺れてたのは自分が立ってる土地のほうだった。
揺れが止まらなくてもしかしたら地球はこの後永遠に揺れ続けるのかなとか思ったりした。
体感だと仕事場から降りてきて3分以上経っていたと思う。
永遠に続くのかと思った揺れは(勿論だけど)何とか止まり、
そのまま家に戻ったが既に停電していて何もできなくなった。
当然、書いていたプログラムはPCが停電で消えたので不明だった。
Ctrl+Sを無意識に押す癖のせいで後日この日の業務内容は無事だったのが分かった。
ワンセグ使えばいいだろ!と言われそうだけど
この時点で我が家のワンセグはわたしの所持する2台の携帯しかなかった。
1台は今はあまり使用していないWILLCOM03で電波受信状態が非常に悪い。
もう1台はメインのDOCOMO P-02Bで十分に使えるのだが、このとき充電が3/5しかなかった。
ワンセグより先にまず本社へ電話しようとしたが、既に電話が繋がらなくなっていた。
北海道に嫁いだ妹とはメールができたが、そのうち送れなくなった。
結局iモードしか使えない状況になり、Twitterにログインして生存報告だけ書いた。
ワンセグで被害範囲を確認したら何だかすごいことになっていた。
このときは千葉のコンビナートが炎上しているニュースを見て、残りバッテリーが不安なので見るのを止めた。
この間もずっと余震で揺れていた。
揺れていない時間がわずかなのでほとんど外にいた。
不思議だけど、食器や棚に飾ってあったブロンズ像は倒れもしなかったし落ちてこなかった。
後で分かったが、倒れたのはわたしの自室の簡単な棚と積み本だけだった。
そのうち電機屋で図面書きしてる父が帰ってきた。
現場仕事にも出るので、ランタンや懐中電灯やヘルメットをどっさり持ってきた。
このときはつくづく建築関係者の機材の有り難味を味わった。
父はLED大好きなのでランタンもLED仕様、懐中電灯より確実でしっかりした光源になった。
一応家の中には一人一本持てるようにラジオ付懐中電灯が3本あったのも助かった。
これは16年前に遭遇したはるか沖地震の影響もあるかも。
そのときも直接被害はなかったが、食器棚から投げ出されて消えていく大量の食器をモロに見てしまいトラウマになった。
今回は食器に被害はなかったのでよっぽどマシだった。
もっと幸運だったことがあって、
実はこの次の日3月12日から三日間、母と祖母と祖母の兄弟で東北の辺境のとある温泉宿に行く予定だった。
この3月11日に出発していたら恐らく帰宅が叶わないような状態になっていたと思う。
これは本当に良かったことだ。
夕方4時ごろになって初めて余震が減ってきたように感じたので、
明るいうちに簡単に避難用荷物を作った。
まだすごく寒い時期だったので犬用の耐寒装備とか、貼れるホッカイロとか、非常用の飲み物の用意なんかをした。
電池で携帯電話が充電できる充電器も持った。
プロパンガスだったので、水道もあるし食事が出来ると気づいたのは夜になってからだった。
旅行に行く予定だった母が用意しておいた食材が大いに余ったので、
使えなくなった冷蔵庫から発泡スチロールに食材を移して零下になる外に置いた。
結局この日はステーキを食った。被災中の食事ではないなあと思う。
次の日の朝になるまでラジオを聴いてコートを着たまま布団に入って1Fの床で寝た。
何度も大きな余震があってそのたびに起きた。
停電はそのまま続いて、3/13の23時くらいに電気が付いた。
電気がついて初めて、津波でどれだけのものが失われたかテレビで知ることが出来た。
ラジオで流れていた情報は映像に追いついていなかった。
その後すぐに仕事できるわけもなく、
暖房に必要な灯油を買いに走ったり、売り切れたガソリンの情報を集めたり(結局入手できなかった)、
流通の止まった世界で食料の心配をしたりしていた。
会社は東京にあるので何故そんなことをしなければいけないか分からないようだった。
というより想像力がないのだなと気づいたのはまた別の話。
ここまでのことを明確に覚えていながら、
やはりなんとなく書く気がしなかったのは自分でもショックを受けていたせいかもしれない。
震災は一瞬のことでその後命があればやりなおせるといったポリシーをお持ちの方は良いけれど、
残念ながらわたしはそこまで生きていることが楽しくないのだなと考える機会になった。
本当の災禍は、この後も生きていかなければいけないことだ。
4月7日の23:33の地震でも停電した。
4月8日14:00の停電復旧まで、やはり仕事できる状態ではなかったけど業務の電話は何回も来た。
現在のわたしはと言えば転職活動中。
会社関係のことはいろいろあったので書くべきではないだろう。
わたしにとって「いろいろあったこと」を、恐らく本当に理解していると思えないことや、
業務がないので自宅待機になるであろうことで転職すべきかと思った。
地震によって何かを失ったことへの葛藤は非常に大きいものだと感じる。
今回、わたし自身については何も失っていないが周囲のいろいろなものを失ったと毎日感じる。
この喪失感が埋められる日はなかなか遠いことは、
16年前の地震のときには気付かなかったが現在のわたしは実感として知っている。
喪失感があったことにずっと気付いていなかったこと、
気付いたときにはまだ喪失感が残っていること。
安易に立ち直れとか頑張れというメンタリティが誰かを苦しめ続けることを日本人は知るべきだ。
気力だけで人がまっすぐ生きていけるという思い上がりはもう捨てないといけない。
と、重い話題になってしまったがわたしはとても元気に生きている(と思う)。
転職先ではもうちょっと給料が上がるといいなー
(昇給3年なかったもんなー)
(むしろ初任給下回ってるんじゃないかって金額だもんなー) ※括弧内は心の叫びです
という意欲で絶賛転職活動中です。

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