[ひとりの]やらかした

wordpress.comの仕組みをまだよく理解していないのですが、予約投稿機能は使い方が分かったので書いていた記事の公開日時をセットして寝ました。
しかし、予定の時刻を過ぎても全然投稿されてない!

やだーwordpress.comの標準時刻UTC+0じゃないですかー
…すみません、UTCの意味がわかりませんでした。

調べたら日本はUTC+9くらいのようです。
慌てて設定しましたが、WindowsはUTCで動いているわけではないことを初めて知った2012夏。

[エンジニアライフ]自分だけが消費されていくところ

端的に言うと、愚痴かなと思います。
できればわたしのこの愚痴をくだらない、見る価値がない、と思う方が多い方が、日本という国は幸せになるのでしょうけども。

わたしは現在地方に住んでいて、東京にいたころより身バレというトラブルを大いに警戒するようになりました。
twitterの更新頻度が落ちているのも関係がありますが、地方に住む人間が知り合いにネット上の言動を特定されたときに何を発見されるのかということは重要なことです。
日本の地方の社会人は決してfacebookを始めとする実名主義にポリシーもなく従うべきではありません。

東京との違いを改めて書くと、社会がとても遅れていて、歪んでいて壊れている感じがします。
例えば会社に属している場合、同じ会社の人間にtwitterのアカウントを知られる場合、その会社での命運はそのtwitterの内容に左右されることになるでしょう。
要するに公私分離が進んでいません。わたしが勤めていた東京の会社では上司の器は大きく、苦言を受け入れてくれ、真剣に対処してくれたことがあります。それでもtwitterのアカウントは知られたくありませんでしたので知られないようにしていました。もし、知られたとしても知らないふりをしてくれるくらいにはすてきな上司でした、と思います。思いたい。
地方では上司のみならず同僚や部下ですら会社の経営者の奴隷として、公人として正当な提案を行おうが私的なtwitterの内容で同じことを愚痴ろうが、特定した相手に対して自分が感じた通りに子供のような仕打ちで接してくるでしょう。まあそこに大きな違いはないんですけども。現実で実際に行動してなくても、書いて特定できたら終わりなのでハードル高くありませんか。
会社組織に属していないとしても、地方の人間がある人間の別の面を知って同じような態度を取ってくれる場合、その人間は本当に希少で価値のある人格者だと判断します。
「ムラ社会」という言葉がありますが、本当にそのままです。誰も信じてはいけないのです。どんなことで裏切られるかわかりません。仲間は助け合うためではなく、足を引っ張り合うために居るのです。

地方の場所や深さや習慣にもよるかもしれません。
しかし東京から帰ってきて在宅業務の間には感じなかった不安を、地元で働くようになってからずっと抱えるようになったわたしにはとてもそうと思えません。
わたしを追わないで。たとえわたしを発見したとしてもついてこないで。ネットのわたしと現実のわたしを同じように愛せないなら距離をつめないで。
幸い、今のところは杞憂で済んでいます。ですが本当に絶望することばかりで、地方の人間は絶対にネット上の活動を特定されてはならないという思いは強くなるばかりです。

とても抽象的なことを書きましたが、地方就職の難しさを感じています。
ありていに言うと東京の会社にいればよかった、地方転職に失敗したという客観的な事実を認めざるを得なくなりました。
今のわたしは東京にいたころより鬱で、つまらなくて、未熟で、貧乏で、絶望ばかりです。
地方のソフトハウスに希望がある、と言っていいのは有名どころを始めとした支社型成功だけだと思います。本社は絶対に地方に置いてはなりません。
批判や提案はへし折られ、仕事はなく、給料は上がらず、生活はギリギリで、何も成長せず、何も得ることができず、それが一生続きます。次の転職が死ぬほど遠いです。

恐らく都市でも同じような問題はあるでしょう。狂った上司とか、狂った経営者とか、狂った同僚とか部下とか。
しかしそれはその個人の問題であって、例えばその会社を避けるとか辞めるとか、その個人を避けるとか離れるとか、そのグループを避けるとか追い出すとか、世界には逃げ道があります。
地方は殆ど逃げる場所がありません。転職先が限られています。そもそもエンジニアを必要としている会社が全然ない。技術者の椅子は何故か管理者という名の実質総合職のおっさんたちで占められています。やっと空きを見つけると、今まさに絶望して逃げ出そうとしている会社と親しく付き合っている会社だったりします。会社は会社同士をつなげる方が都合がいいので、待遇を下げるとか、評価を適切にしないとか、そもそも就職をなかったことにするとか、そういう手段でまた転職を失敗したと感じさせるようにするでしょう。
待遇は簡単に下がります。転職時の希望額を業績が悪くて出せないから我慢しろとか、経営者の不況を買うような言動で社内を批判したので賞与をゼロにしてやるとか、本当に簡単そうです。既に何に対して法があり、罰則があるのかの判断もつきませんが、そもそも誰も法のことなんて気にしないのです。気にならないことは存在しないのと同じ。

独立や起業もよく勧められます。勧められる頻度に対して、実現度は明らかに低すぎるのをみんな知っていながら勧めます。ある種のナルシストや暴君だけがその現実を無視して起業という作業を機械的に行います。成功する企業はもちろんありますが、それは既に地方型企業ではないです。地方で成功するのは地方の習慣を捨てた企業だけです。あるいは美しい経営者だけでなく、見目良い管理職とかわいい人事職が正しく協力しているすてきな会社だけです。
起業に際して、女は特に不利であることは殆どの男は知らないし、現実を話しても見向きはしません。そもそも大半の地方の女は銀行から金を借りられないんです。
現在正社員の女性でも、給与額は税金支払い後の金額で比較しても派遣社員の男性を遥かに下回ります。年収が低いので起業のためになどお金は借りられません。持ち出しで起業しても、その後の融資が必要な企業のことを銀行が正当に評価して快く融資することはあまりありません。女はいつ子供が出来て会社をテキトーにやめるかわからないからです。生活のために働くなら独身のままか、パートにしてくださいと同僚の男性が平気な顔で言い捨てたりします。

ここは本当に「人間が幸福に生きる」ということに対して鈍いです。特に、「他人が幸せに生きる」ことは許容しません。自分が幸せだと思うことは隠したほうがいいのですが、そもそも頻繁に幸せを感じることがないので不幸の話が好きです。
「自分が幸せに生きる」というスタイルを他人に押し付けるのも大好きです。不幸な話をするとさらに不幸自慢をするか、さもなければ「十分幸せだ」というレッテルを張られ面倒なことになります。
老人より若者は不幸であるべきです。これからたくさんの寿命があるだけで「十分幸せ」なんですから。なので「損しないように」年金は全額受け取ります。子供に分ける金はもう使い終わりました。

という内容をブログに書いた場合、このわたしがリアルで特定されると大変なことになる、という話を書いてみました。エンジニアライフと遠い気がしますが気にしない。
いや半ばジョークなんですけども。ジョークじゃなさすぎて涙が出ちゃうくらいリアルに書けてしまいました。それをブラックジョークと呼ぶべきなんでしょうか。
マジな話、特定されるとやばいので特定した人はお黙りくださるようお願い申し上げます。

そもそもネット上の愚痴はいつも大げさですよ。
それと、地方のブログって地方って幸せ!地方に企業を増やすべき!みたいなことがすごくたくさん書いてあってなんだか気持ち悪いんですよ。
いや恐らく高確率で、地方のブロガーとして成立する人は安定した生活にあるからなんでしょうけども。ブログを書く、というのは安定していて高級な趣味なんです。これは本当に痛感しています。

金も文化も豊かさも幸せもないんですよね。自我を持つ人間のそれは、ただ消費されるだけのものであっていい理由はありません。でもそんなこと誰も考えてはいません。ただ人間を消費して体裁を繕うためだけの社会をもろもろ崩壊してるのに維持しているだけの自己満足というか。
逃げ出す算段は既に始めていますが、地方に夢見るエンジニアの方がこれを読んでいただける機会があるなら、その地方に本当に夢はあるのか?というSF小説が一本書けるくらいまで考証したほうがいいでしょうね。
わたしはしませんでしたので失敗しました。

これをフィクションだと思わない人が増えたのならもしかしたら日本全体が既にそうなのかもしれません。

[ひとりの]タイトルに寄せて

さて、移転作業移転作業移転作業とお題目のように移転作業という単語を使用しながらぐだぐだと暮らしていたわけですが、実際自分の中ではお題目でしかなかったようでずいぶんと公開まで時間がかかってしまいました。

前身ブログの開始日が2004年5月6日であることを改めて意識すると、本当に三日坊主というか、ブログの継続の意思が弱くてしょーもないと思いつつ、iPhoneからも更新できるじゃない!という言い訳で何とか続けていけたらいいなあと思います。

ブログのタイトルについて改めて思いを寄せて、このタイトルに決めた理由となった山崎将義さんの「SHEEP」というアルバムを買いなおしました。
話は長いんですけども、大学生のときにこの「SHEEP」をブックオフで見つけて購入してアルバムに収録されていた「低気圧ボーイ」という曲に長い間恋をしていたわけです。

それを今更「買いなおす」ハメになったのは全面的にわたしの持ち物に対するルーズな感覚がでかいとは思うのですが、貸した相手も貸した時期も覚えていながら返していただけなかった、この一点に尽きると言いますが、要するに貸したまま帰ってこなくなったという。
幸い(というべきじゃないとは思いますけども)、他のシングルにライブ音源の再録などがあったのでどんな曲かというのは覚えていたつもりだったのですが、今回移転に際して改めて買いなおすことでとても良い体験をしたと思います。

元々「低気圧ボーイ」という曲は有名なわけではないし、山崎将義さんはどちらかというとブルースやらカントリーやらの名手だと思っていますが、曲自体はファンキーな曲です。
山崎将義さんについてはその声を聴くだけで気絶しそうなくらい好きな時期がありましたが最近は落ち着きました(超個人的エピソード)。
彼の魅力はその歌そのものより、ラテンな感覚でのアレンジが超絶巧妙というか、日本人離れした感性の編曲にあると思います。
で、「低気圧ボーイ」はそのセンスの中心というよりは少し重心から離れた位置にあって、クラブミュージックのようなあっさりしたテイストだと思います。
適当に始まって、適当に盛り上がるんだけど気が付いたら余韻を残しながら去っていく。
遠くの方から存在感を持ってやってきて、しとしとからざあざあと雨を降らせて、湿気となんだかさみしい雰囲気を冷気の中に残らせて去っていく夏の終わりの低気圧のような曲です。

大学生のわたしも、今のわたしも、本質的には同じ人間なので不思議ではないのですが、何年も聞いていなかった音源のその音の一つ一つを聞くたび「あーなんだかさみしいなあ」と思わせるこの曲に改めて感心しています。
夏って決して好きな季節ではないんですけども、その終わりを端的に示したその曲と、その曲のニュアンスがくみ取れる完成度と、大昔の自分が聞いていた曲をまた自分が聞いていることと、夏の終わりの「終わり」という感覚を疑似的に与えられることと、そんなたくさんのオブジェクトがぐるぐるしてなんだか頭の中がいっぱいになります。
秩序でもあるし、混沌でもあるのですけども、人間って複雑にできているのだなあと思うのです。

そんな自分の感性を残せるブログにしたいな、と改めて思います。

閑話休題。
山下達郎の「高気圧ガール」へのオマージュ曲だと勝手に思っていたのですが、世の中には「低気圧ガール」も「高気圧ボーイ」もいるらしいので書いてみました。
同じアルバムの中に「審判の日」というまた日本人離れした面白さの歌詞を備えた歌があるのですが、これはまた書きたいと思います。