自分にとっては割と哲学的な話なんですけど、日本社会ではものすごく物理的消費量な話。
よく2chあたりの男女厨が
「女は体力なくて使えない」
「女はすぐ会社辞める」
とか書かれていて思うんですけど(真に受けるな)、
自分は月曜、火曜、水曜、木曜、金曜まで仕事していて可能なら土曜日と日曜日は出勤したくない人です。
何でかというと月曜から金曜まで泳ぐだけで疲れてしまうから。
泳ぐ、というのは勿論比喩ですが、自分にとっては本当にそんな感じで、金曜に仕事が終わって家に帰って初めて息継ぎとかペースとか水の圧力を意識しなくなるといったそんな概念があります。
要するに通勤含めて仕事自体のことを、自分の意思に逆らって泳いでいる水の圧力だというように感じてしまっているのだと思います。
もうひとつあって、一日の初めに起きて寝るまで、これも泳ぎ始めて泳ぎきれるかという不安を感じてしまうことが良くあります。
一週間で言うと1出勤日分がコース1往復で、それを5往復してやっと金曜日という感じです。
何でこんな概念なのか?というのをよく考えると、やはり元々体力がないので貧血を気にしながらペース配分してた学生時代に問題があると思います。
片頭痛もものすごくて小学校とか中学校は月に2日は休みとっていました。風邪も引くしアレルギーもすごかった。
運動能力的にも短距離にはほぼ問題がないものの、遠距離になると400M以降は歩くしかなくなり真っ赤なトマトのような顔で熱中症に耐える子供でした。デフォルト熱中症。汗が出にくく代謝に問題があったようです。高校のときには不整脈も見つかり念願のマラソン免除です。ここだけ今見ると当時の自分がちょっとうらやましい(えー)
今は割と折り合いが良くなりました。無理しなくなりました。自分で判断して無理しない範囲が分かるようになりました。それだけでもずいぶん遠くまで見通せるようになりました。不整脈も疲れてなければ出ないし、貧血や片頭痛も人に隠せるくらいには対処できるようになりました。
泳ぐ、というのは死ぬほど苦手な動作でありました。そもそも幼児の頃に風呂でおぼれた後遺症で水に顔を付けられない状態が長く続いていました。3年くらい毎年スイミングスクール通っても毎年泳げなくなってる、そんな子供でした。プールの水の味が死ぬほど嫌いでした。コンタクトになってからは絶対泳がないと決めてましたが高校のプールが壊れていたので授業もないし助かりました。
今思えばその体験の複合的なイメージが、月曜から金曜まで泳いでる、または1日中泳いでるという概念に影響している気がします。
フルで泳いでたら死ぬ。1日中は何とか泳げても次の日は泳げない。休みを取り上げられるとひずみが出る。
そんで、泳ぐことに注力してるとどんどんバカになっていく気がします。仕事のことじゃなくて泳ぐ方に気を取られているので当たり前です。出社して席に座ってるだけで息継ぎのことばっかり考えてるんだから、溺れないようにするだけで精いっぱいです。
在宅勤務のときにはその概念はまだ出現していませんでした。
思えば、その前に東京で通勤していたときもその概念はありませんでした。若かったからでしょうか。それとも自分の命は電車に預けて、もう少し気楽に暮らせる給料だったからでしょうか。息継ぎが必要ないほど楽しく仕事していたからでしょうか。
サービス残業とかとんでもないです。望まずに残業したら体力か息か分からないけど途切れて死ぬかもしれないからです。そもそも対価のない仕事は害悪です。
そんなことを定時で帰りながら車の中でつらつらと思うわけです。だから自分にとってはすごく哲学的な話です。まだ働けているからです。自分自身の破綻や危機を恐れているのは自分自身だけです。定時ですら死ぬ思いで泳いでいるのにそれでも怠け者扱いされてもなーと思うのです。
でも今の日本ではどちらかというと物理消費量な話なんですよね。「社会人が使うべき体力量」みたいなのが本人に裁量権がないんですよ。他人が死ぬと思ってる容量を把握できない。体力量のない人間が劣っているという風潮。体力で仕事してるわけじゃないはずなんですけど。
いっそバカみたいに体力ある男しかかからないウイルスとか流行すればいいんですけど。男でも体力のない人はいるわけで。自分が男性になれれば解決するのかな、と思った時期もあるんですが日本社会はどこにでも地雷や落とし罠だらけなんだなと思うまで長くはかかりませんでした。
自分が泳がないで溺れないで自然に息ができると思う仕事場はこの世にあるのかと、割と真剣に悩んでいます。